若い頃は夫の家に行くと、なかなか輪に入れず、親戚とはいえ他人だと実感させられたりしました。
でも少しでも受け入れられたいと思い関わってきたと思っています。
元々自分(親)の親戚関係はないに等しいものでしたが、それが故、自分が結婚したらそうではないお付き合いをしていきたいと考えてやってきたつもりです。
体調を崩し、大病した時に強く思ったことは、
「自分が死んだら娘たちはどうなってしまうんだろう?誰が娘たちを見守ってくれるのだろう?」
そう考えてみた時に思い至ったのは、やはり血縁者です。
自分たちが死んだ後だから、どうでもいいと言う人もいるけれど、
「本当にそれでいいの?」
と問いかけたくなる人が周りに多くいます。
一番先に手を差し伸べてくれるのは…血縁者なのではないか?
老いていく自分を気にかけてくれるのも…血縁者なのではないか?
…というか、そう信じたい。
でも残念ながらそう思わない人もいる。
考えもしない人もいる。
何も感じていない人もいる。
もし自分がその立場に立たされた時、想像してみても、
「同じ答えですか?」
「どう?元気?たまには遊びにおいでよ。」
その一言だけでもとてもありがたいな、と感じるものです。
価値観は様々だし、正解はない。
人間だもの。
でも今日明日ではそんな繋がりは作れないのです。
日頃から誰かのために心に寄り添い、思いやることで、そういう関係が築かれていきます。
あ、困った。
誰か助けてくれないかな。
そう思った時に気付いたら周りには誰もいない。
だってこれまで、自分もその誰かに心に寄り添ってこなかったから。
当然なのです。
その時にはもう遅いのです。
私は常に自分の考え方に?(疑問符)をつけて生きていくことを心がけています。
「もし〜だったら…」
そんな想像力が自分を成長させてくれるものだと、私は信じて生きています。
大病してさらに強く思いました。
決めるのは自分。
だからどんな結果になっても人のせいにしない。
責任を取るのもまた自分。
そして、私自身が出した答えは、
過度な発信はしない。
必要最低限。
受け身のスタンスで。
気持ちがあるなら繋がれる。
少し寂しい気持ちは否めませんが、求められていないものを求めても、自分が疲弊するだけです。
「いくら投げても返ってこない球もある」
ということ。
でも…
誰かから投げてもらうのを待つのではなく、まずは自分から投げてみませんか?
一度きりの人生、誰のためでもない。
“自分のために”。
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